「走ることについて語るときに僕の語ること」

ランニングについての記録や思いを綴った村上春樹のエッセイ集、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでみました。

面白かった。人生初村上春樹。文章がとにかく読みやすて判りやすい。村上春樹ってもっと難解なものかと思ってた。

ランニングについて書かれた雑誌や小説、ガイドブックなど色々読みましたが、「文章力のあるランナー」もしくは「ランニングの哲学を語れる文筆家」となるとそう多くはいないので、なかなか新鮮でした。

読んでて印象に残ったのは、最後に書かれた著者の「なぜ走るか」ということについて書かれた文章。これを読んで、もしかして自分もこういう理由でランニングを続けているのかなぁと思ったり思わなかったりしました。

(長いけど引用してみます。)

「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいな物である。もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう? 苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているという確かな実感を、少なくともその一端を、僕らはその仮定に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

そして、次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生が端から見て―――あるいはずっと高いところから見下ろして―――たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものとして映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の足で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべく力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な―――どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な―――教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)